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この考え方はニーチェの思想(主にキリスト教批判)に基づいているが、これが正しいニーチェ解釈なのか知らない(多分違う)し、原典なんか当然読んでないし(ドイツ語読めないし)、そもそもニーチェ全部読んでない。というかこれはもう自分自身の考え方なのでそういうのどうでもいい。

 

自分の世界の捉え方と人生への価値観

  1. 「絶対」は崩壊している。
  2. 自分自身の哲学を構築する。二本の足で地面の上に立つ。 
1. 絶対性の崩壊

 この解釈は主にニーチェによるキリスト教批判に基づく。自分はこのキリスト教というものを拡大し、絶対性と捉えて解釈した。つまり万物想像の主(神)を想定し、この絶対神に身を委ねることで自分の行動・人生哲学を組み立てる思想であると一般化すると、このような絶対的存在を批判したニーチェの思想は自分にはとてもしっくり来る。

物理の世界では、ニュートンによる「固定された3次元空間においてものとものの関係が方程式によって記述される/時間は等速に流れる」という思想が相対性理論によって破られ、空間は重い物体によって歪む/時間軸は速度によっては歪むという説が一般的になった。また、不確定性原理が示すように物体の座標は観測という行為によって干渉され、確率的にしか規定できないことも示された。

生物学においてもゲノムが転写されRNAの翻訳を経てタンパク質として機能するという生命体における規則(セントラルドグマ)が存在すると考えられてきたが、塩基配列解読技術の向上によって様々な生物の全ゲノム配列が読まれる時代に突入すると、RNA単体でセントラルドグマを外れて機能するものが多く存在すること、ゲノム配列中になんの機能も持たないジャンクが大量に存在すること、生命が進化の過程で獲得してきた形質(キリンの首は長い、カラスは黒いなど)は多くが偶然獲得されたに過ぎないことが明らかになった。

コンピューター科学の発達により、脳、心などの定義がSFではなく本格的に揺さぶられる時代に突入した。

挙げ始めるときりがないが、プラトン以降世界における本質・絶対性・究極の一般化法則(イデアラプラスの神など)を探索する哲学・科学における取り組みは、世界の思わぬ複雑性・偶然性・確率的性質によって敗れたと考えざるを得ない(だからといって価値がないというわけではもちろんない)。すなわち、ニーチェが唱えたキリスト教的な価値観の批判は現状の世界を観察する上では非常に正鵠を得ており、新たな価値基準を検討しなければならない。

2. 自分自身の哲学と自分に依拠するということ

以上の世界の捉え方では、もはや自分のすがる絶対性という概念は喪失された。自分で自分自身の価値観を探し出すことが大事である。そのような価値観は他者のものに干渉されないはずだし、他者に干渉することもない。

 

スケールの大きい話だが、一般生活に矮小化して考えるなら

・物事を一般化しようという取り組み自体もはや道楽に過ぎない。このようにして生み出された無数の一般化規則(人生論とか)はだいたい運とランダムを超えられない。

・インターネットの発達によってこれまで関わりが無かった人々とのコンタクトが生まれた結果、想像以上の思想・人間の多様性が明らかになり、それが結果的に反動として局所的に均質化され先鋭化する思想の対立を生み出している。あまりにも正義というものが危うい、立場に依存するものであることが明らかになっている。

・あまりにも多くの情報が手に入る時代になり、何もわからなくなってしまっている。自分自身の思考を尊重し、他人の思想に干渉しない。

以上はすべてニーチェが予言した絶対性の崩壊と肉体への回帰という思想に通じる。